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「葵と杏葉」
葵と杏葉・藩主編

葵と杏葉藩主編 第二十三話 医学館・其の貳

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「島本先生、用意する道具とは一体どのようなものなのですか?」

 島本ほどの医師が、『学問を本格的に学ぶ前に揃えて欲しい』道具や書物とは一体どういうものなのか、斉正は好奇心丸出しで尋ねた。

「そうですね。まずは蘭方の医療道具を一人一つずつ・・・・・・外科道具と薬籠それぞれを用意して下さい。入寮者を考えると三十個くらいになりますか。優秀だが貧しい者も入寮してくると思いますので、彼らの負担にならぬようそれを藩で用意して頂きたいのです」

 低く穏やかな声でとんでもない要求を突きつける島本に斉正は目を丸くする。

「さ、・三十も!一人分に付き五両だとしても・・・・・・!」

 金額もさることながら、外科道具という特殊な道具を一挙に三十も揃える事自体、今までに無い事である。しかも武雄の銃と違って幕府の許可もこれから得なければならない。だからこそ二、三年に分けて用意してくれと島本も言ったのだろう。

「道具を数人で兼用する事は出来ないのか?」

 一年に十個ずつでも手に入れられるかどうか極めて怪しいかもしれないと、斉正は妥協案を探るが、これだけはそれ以上の年月をかけてもいいから絶対に揃えてくれと島本は強く進言した。

「でしたら道具の分だけ入門者を募る形でも構いません。漢方医ならともかく、蘭医となるとやはり道具が使えなければ話になりませんので。殿は稽古もろくにしていない医者の手当てを受ける事は出来ますか?または奥方様を診て貰う事はできますでしょうか」

 島本の質問に斉正は思いっきり首を横に振った。

「それは庶民とて同じ事。佐賀藩の名を背負う事になる医者がそんな事では医学館の、否、佐賀の恥になります。なので二、三年で三十個・・・・・・いいえ、もう少し時間をかけたとしても道具だけは揃えていただきたい。書物は道具の後で構いません」

「それほど・・・・・・書物より大事なものなのですね」

 島本の力の入れように、斉正は医者にとっていかに実践が大事なものか垣間見たような気がした。

「はい。知識だけであれば、今まで私が積み重ねてきたものを教えれば最低限医者として通じるかと思います。しかし医者は実際に病を治し、怪我を治さねば意味をなさないのです。なのでまずは外科道具と薬籠を。その次に・・・・・・」

「新しい書物、ですか」

「はい、その通りでございます。医学書だけでしたら私の手持ちのもので当座はしのげると思いますが、医学書で扱われているいくつかの言葉で、私にも判らないものがあるのです。たぶん医学の基礎になる舎密(化学)などから来ていると思われるのですが」

「しかし判らぬとなるとやはり舎密は必要ですね。武雄では砲術も取り入れておりますし、そのうち火薬などの調合において舎密が必要になるかもしれませんから、今のうちに手に入れておいた方が良いでしょう」

 斉正の言葉にほっとした表情を浮かべた島本は、早速何冊かの本の名前を挙げ始めた

「まずは基礎となる舎密の学問書ですがラヴォアジエの『Chemische Principes』、イペイ『HEMIE voor Beginnende Liefhebbers』、それとショメルの百科事典を入手してください。和蘭薬鏡は私が持っておりますのでそれを利用すれば良いでしょう。これはあくまでも『とりあえず』です。それぞれの書物を和訳しなければなりませんので、一挙に輸入してしまっては宝の持ち腐れになってしまいます」

 島本は笑いながら斉正に欲しい書物の要望を出し、斉正もそれを快く――――――少なくとも外科道具よりもあっさりと了承した。



 そして紆余曲折を経てようやく医学館が誕生した。ただ、事情が事情だけに最初の蘭方医学希望者は漢方と蘭方の両方を習得する。それを嫌がり、予定人員より希望者が少なくなるかと思ったが、予想に反して多くの希望者が集まった。

「やはり無料で知識を得る事ができるというのは魅力なんですね」

 松根が言ったとおり、この医学館において授業料は必要なかった。厳しい修行があるが、貧しい者でもやる気と勤勉さがあれば門戸が開かれている。つまり身分や家の資産に甘える事は一切許されない厳しさを含んでいる事でもある。

 日本初の医学校といわれる医学館は、当時としては珍しい教育機関を兼ねた医療施設であった。この時点より十年以上後の事になるが、医学館の教授たちは資格・免許の無かった医学の世界に医業免状制度を設けるという偉業をやってのける。
 また医学習練の奨励のため医師手当を増す一方、技術が未熟な医師の手当は減らすなど、能力主義の評価制度を取り入れ、漢方、蘭方を問わず、自己研鑽の必要性を突きつけたのだ。この厳しい制度は後日日本有数の厳しさを誇ると言われた弘道館の指導においても少なからず影響を与えたと思われる。

 そして医学と同じくらい重宝したのは金武の数学、物理学の授業であった。元々道楽としてこっそり和算を嗜む者は居たが、それよりさらに生活に密着し、算盤が無くても紙と筆さえあれば全ての計算ができる蘭法の算術は、医学を嗜まない者さえもこっそり授業に紛れ込む者がいる程であった。

「貴様等!いい加減にせぬか!」

 弘道館の授業を抜け出し、医学館の算術の授業を聞きに行く者に対し茂真は怒鳴りつけながらも、その異常なほどの熱心さに呆れ果てた。

「しかし・・・・・・ですねぇ」

 茂真に叱られても十五、六歳の悪童どもは不服そうな表情を見せる。

「あの算術は弘道館でも取り入れるべきですよ!測量だって和算より楽に出来ますし、何より紙と筆だけで・・・・・・算盤を使わないのが良いじゃないですか」

 算盤は武士が持つものではないと言われている時代である。のちに斉正は『算盤大名』と言われる事になるのだが、それは侮蔑であって決して褒められてのものではない。しかし、実際金勘定から土地の測量まで武士の生活にも実用的な算術は必要なのだ。さらに武雄では砲術も導入し、その弾道計算にも算術は必要だと本藩にも噂が流れてる。
 だが、必要ではあるけれど四六時中算盤を持ち歩く訳にはいかないし、何よりじゃらじゃらと算盤を鳴らしながらというのは恥ずかしい。それに対し西洋算術は計算において道具を必要としないところが彼らにとって格好良く思えるのだろう。

「・・・・・・そのうち殿も船を造りたいとか言い出すだろうしな。その時までに算術が出来る人物は必要か」

 熱心な若者達の訴えを聞きながら茂真は腕組みをして考える。本当ならば弘道館においても蘭方の算術を教授して貰いたいのだが、金武は医学館において島本の助手も務めているだけに、算術だけをして貰うわけにもいかない。かといって医学館の広さからしたら今の人数が限界だろう。その事を金武に聞いたら、あっさりと『もっと人数を増やすことも可能だ』と言われた。

「南蛮算術は実用の道具ですからね。一問、二問やり方を教えたら後は実際の懸案に取り組ませるのが良いでしょう。なので一組三十名、一組に付き二日に一度、四半時ずつ教えればものになりますので、一刻もあれば百二十人は教えられます。というか最初は四半時持たずに音を上げるものも少なくないでしょうけど」

 痘痕の残る顔をくしゃくしゃにしながら金武はにこにこと笑う。

「そんな少ない時間で大丈夫なのか?」

「ええ、その代わり測量や砲術訓練など実戦でこき使ってやって下さい。理屈は知らずともやり方を知っていれば務めをする上で問題はおきませぬ。ただ、そのうち本質的な理屈を知りたがる者も出てくると思いますので、そういう者達を集め指導者にする為の勉学をやらせればいいでしょう」

 実際弘道館の授業を抜け出して金武の教授を聞きに来ているものは十数人であるから、金武の提示した過酷な予定でなくとも大丈夫であろう。いっそその数十人の中から指導者を育成するのも悪くない。
 結局希望者のみ弘道館での授業が終わった後、金武の講義を受ける事になった。金武自身の修行のため、この講義は天保十年までたった五年弱しか行なわれなかったが、金武の懇切丁寧な教授は教え子達に好評であった。

 元々教えるのは嫌いではないらしく、通りで大工仕事を見かけた折、木材の切り方が不経済だといって合理的な切り方をじっくりと教えたという話も残っている金武である。彼の教え子は後年佐賀藩における重工業政策において中心的な役割を果たし、金武自身も伊東玄朴の許での修行を終えた後、改めて佐賀で教鞭を取る事になるが、その話はしばらく後の事になる。



 島本、そして金武を中心とした医学館の顛末は、斉正自らの筆で盛姫に伝えられた。

「そうか。医学館は結局漢方の学問所に・・・・・・」

 前野良沢、杉田玄白らが記した『解体新書』以来、徐々に蘭法医学は浸透していってるが、まだまだ不安を感じる者も少なくない。

「所詮あのご隠居の横車でございましょ」

 風吹はしょうもないという風に肩を竦めた。

「それよりも・・・・・・本当に佐賀の今年の収穫は問題無いのでしょうか?幾ら姫君様の御為とは言え、このような飢饉の最中に医学館などと言う出費を重ねて」

 斉正が藩主になってから相変わらずの質素倹約を敢行している盛姫達だが、そのような状況に置かれている者達でさえも自分達の生活に気後れするほど陸奥から関東にかけての飢饉は深刻であった。米相場はみるみる上昇し、それに伴って贅沢品――――――大名や旗本、大店の商家にとっては必需品――――――の価格も跳ね上がっている。加賀や肥後に比べたら手頃な値段の佐賀米も三割高になっているらしいが、それでも他の物の価格も上がっているのだから苦しい事には変わりがないと風吹は心配したのである。

「それは問題無いようじゃ。外から贅沢品を取り寄せるのはご隠居殿だけじゃし、貞丸の贅沢はせいいぜい学問所の立て直しくらいじゃ。しかも武雄には・・・・・・」

 盛姫はそこで口を噤んだ。いくら黒門の中とは言え、どこに耳があるか判らない。幕府からの援助の話は他の藩はもとより隠居派にばれてはいけないのである。

「・・・・・・まぁ妾の事はさておいて、まともな医師が増えれば民の健康も維持できるじゃろうし、そうなれば心置きなく百姓仕事に従事してくれるようになるであろう。貞丸の狙いもそこにあるに違いない」

 本当に必要な事は飢饉になる前に取り組んだ事は良い事かもしれない。再び子年の大風の時のような状況に追い込まれたら、医者云々言っていられないであろう。盛姫は遠く佐賀の復興を想いながら、斉正からの手紙を丁寧に閉じた。



 島本の注文を受けて忙しくなったのは他でもない茂義であった。斉直を中心とする保守派の手前、大々的に蘭書や医療道具を輸入できないので自然と武雄領経由にならざるをえないのである。

「まずいな・・・・・・これじゃあ武雄や御用商人の『除き物』枠をこえちまう」

 阿蘭陀からの輸入品には『正銘物』という長崎会所から落札商人、そして大阪や京都の問屋へと流通する正規経路の他に、請役人が輸入品の一定量を輸入原価ないしそれに近い値で購入できる『除き物』、遊女が外国人から直接貰う『貰い物』などがある。
 抜け荷などの『不正物』ではなく『正銘物』の一種であるが、正規の経路の三分の一から十分の一の価格で手に入れられる『除き物』は購入側として非常に魅力的である。ただしこれも幕府の長崎貿易独占を脅かすものなのであまり多くは認められない。
 武雄の分だけならば間宮等の働きかけもあり安い価格で手に入れる事が出来たのだが、佐賀本藩の分が増えるとその分多くの金がかかってしまう。これ以上間宮に融通して貰うわけにもいかず、茂義は悩む。

「あとは『貰い物』か・・・・・・風吹にばれなければいい訳だし、別にやましいところがある訳じゃないんだし。気が進まないがこれ以外方法はないしなぁ」

 『貰い物』を利用するには丸山の遊女にそれなりの『つなぎ』を付けなければならない。遊女を抱くつもりは全くないが、ただ一つ風吹に疑われる事が気がかりである。
 決して風吹が怖い訳じゃ無いとぶつぶつ文句を言いながらも早く手を打たなければ次回の阿蘭陀船入港に間に合わない。茂義は家臣に命ずると早速行動に打って出た。


UP DATE 2010.07.21

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医学館・其の貳です。今回はちょっと堅めですかね~。ようやく一歩を踏み出せた医学館ですけど、まだまだ足りないものばかりです(笑)。とりあえず島本先生の手持ちの本と薬品などを知る上で基本となる化学の本だけは何とかしようということで(苦笑)。ちなみに今回話に出した二冊は武雄藩所蔵の本でございます。手持ちの資料が武雄藩のものしかなくって正直どこをどう探して良いものやら(^^;こういう時、基礎がしっかりしていない事を痛感いたします。
そして島本先生も今の私と同様に『舎密の基礎』に苦しんだんじゃないかと勝手に妄想させていただきました。医学に限らず技術系のお仕事というのは先輩方が積み重ねてきた技術に乗っかってしまえばある程度何とかなってしまうものなのです。プログラミング言語を知らなくてもホームページは作れますし表計算も出来てしまうように・・・・・。でも基礎を知っているか知らないかでいざトラブルの時の対応力は全然違います。私の話の中の舎密学はそういった基礎の例えだとざっくり認識して下さいませv(でないと苦手な方はパニックに・・・・・質量保存の法則を発見したラボアジエ、フランス革命でギロチンの露と消えてしまったんですよね~。化学が苦手でも歴史方面で興味を持っていただけましたら嬉しいですv)

盛姫達の会話にも少し入っておりますが、そろそろ天保の大飢饉の影がひたひたと忍び寄ってきております。ネタバレになりますので佐賀藩の状況は内緒ですが、『甲子夜話』にも取り上げられているんですよね~。『この時期にこの立場にたつか?』ということをやらかしていますのでそちらもお楽しみに。


次回更新は7/28、半分くらいは丸山遊女が持っている『貰い物』枠の獲得話になりますが、後半からは天保の大飢饉を取り上げる事になりそうです。
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