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「葵と杏葉」
葵と杏葉・改革編

葵と杏葉改革編 第十四話 弘道館・其の貳

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 天保十一年六月二十三日、真夏の太陽がじりじりと照りつける中、新しい畳の匂いのする講堂、そして講堂に面した中庭に大勢の若者達が控えていた。下は袴姿も初々しい子供から上は二十歳を過ぎた青年まで、身分の上下を問わずぎゅうぎゅう詰めに講堂や中庭に詰め込まれているため余計に暑さが増しているが、誰もその事に対して文句を言う者はいない。
 一言でも愚痴を漏らしてしまったら、それはすなわち自分の負けを認めてしまった事になる。新しい弘道館では今までの慣例、生まれついての身分などまったく意味を成さないという事を若い彼らは肌で感じているのだ。でなければ身分の違う者同士、年齢差のある者同士まとめてこんな所に詰め込まれるはずはない。
 夏特有の湿気を帯びた熱気と、それ以上の緊張感の中、若者達と彼らを指導する指南役達は、藩主・斉正を今か今かと待ち受けていた。

「殿の、おなぁ~りぃ~!」

 松根の涼やかな声が講堂、そして中庭に響き、皆一斉に平伏する。その後に請役・茂真の先導にて斉正が講堂の上座にしずしずと進み出て、準備されていた席に着いた。

「皆の者、面を上げよ。遠慮は要らぬ、ここでは我もまた学生の一人だ」

 斉正の言葉に隣にいた者同士が困惑したように頭を下げたまま顔を見合わせるが、茂真のさらなる促しでようやく皆が頭を上げた。

「暑い中、臨席してくれた事ありがたく思う。特に若年の者にとっては慣れぬ・・・・・・というか初めての席、緊張するであろうがこれから話す事は大事な話じゃから心するように」

 弘道館の拡充において一番の変化は、斉正の目の前にいる幼子達であった。今までの弘道館は手狭で、幼子達は好意で勉学を見てくれる先輩達に勉強を見て貰っていたのだが、それだとどうしても身分で差が付いてしまう。それを改善するため今回の拡充で『蒙養舎』という初等教育施設を設け、数え年八歳から入学するように義務づけたのである。

「壮年の者も同様じゃ。この弘道館を我が家同様に思い、文武に励んで欲しい」

 打って変わって今度は中庭中に響く声で斉正は年長の者達に語りかけた。蒙養舎の課程を修了した者は弘道館に住み込み、学ぶ『内生寮』か、自宅から通う『拡充局』に進学し高等課程を修めるのである。内生寮、拡充局のどちらを選ぶかは家庭の事情によるもので、身分が高くてもより多くの時間を勉学に当てたいと希望するなら住み込みの内生寮に入る事を許される。

 ただ、今のところそこまで気概のある者が現れていないのが現実である。それどころか、上級家臣の子弟の中には今回の拡充で初めて弘道館の門をくぐるという者も少なくない。上級家臣達は弘道館を蔑み『中・下級藩士の寺子屋』と馬鹿にしていたのだが、今回斉正直々の命により藩士の子弟全員の入学を義務づけられた為、仕方なく自分達の子供を通わせたというのが実情である。だが、入学した学生達の考えは親とは全く逆であった。

「やっと・・・・・・上様の玉顔を拝む事ができた」

 上級家臣の子でありながら中庭に控え、遠目に斉正の姿を見てむせび泣く者もいる。弘道館に通う事ができた中級、下級藩士の若者が斉正に引き立てられていくのを指をくわえて見ていなければならなかった者達だ。五年前の大淘汰で親が暇を出され、再出仕のために弘道館への入学を希望していたのだが、親の反対に遭い今まで弘道館の門をくぐれなかったのである。そう言った意味においてもようやく『全ての者に平等な出世の機会』が与えられたと言えるだろう。

「・・・・・・我らは先祖から家督を継承して以来、朝晩努力をしているもののその効果が現れているとは思えない。それは――――――今までの学びが足りないからに他ならないと我は思う。故に佐賀の隆盛の為、皆にはこの弘道館にて稽古勉学に励んで欲しい。我もそなた達に負けぬよう月に二、三回は弘道館に足を運んで稽古勉学に励み、佐賀を立て直す」

 斉正の決意に満ちた言葉に、辺りはしん、と水を打ったように静まりかえった。実際弘道館には『藩主臨校の間』も造られおり、斉正の言葉が嘘ではないという事は明らかである。藩主でさえこの覚悟なのだ、自分達もうかうかしていられない――――――その場にいた者達の目の色がさらに厳しさを帯びてきた。

「――――――我の挨拶は以上だ。詳細は新しく弘道館責任者となった請役から話して貰う」

 少しほっとした笑みを浮かべながら、斉正は茂真を促した。

「御意」

 茂真は深々と斉正に一礼した後、懐からきちんと折りたたまれた書状を取り出し、それを広げ読み上げた。

「我が弘道館においては、上は家老嫡子から、下は足軽の末子まで全員の入学を求めんとす。学問の時間だが明け六つから朝五つまでをひとつ。朝食の後、朝五つ半から夕七つまでを昼、夕食後暮れ六つから夜四つまでとする。蒙養舎に通う若年の者は昼だけだが、内生寮、拡充局の者達は朝から晩までとする」

 現在の時間に直すと朝六時から朝八時、朝九時から夕方五時、さらに夕方六時から夜の十時までの合計十四時間の長さである。その尋常ではない学習時間に学生達がざわめきだすが、それをかき消すように中村の一喝が響き渡る。

「それだけで済むと思うな!学問、武芸とも五日に一度は試験があるのだ!それに落ちぬ為には一日が足りないと嘆いても許されぬぞ!」

 その言葉に辺りは水を打ったように静まり返った。今回の移転を機に学問・武芸の試験が毎月数回行われるようになった。それだけではなく、斉正自らが臨席する特別試験も新たに創設され、試験を受ける方は気を抜く暇もないのである。だが、それは逆に藩上層部に才能を見いだされ、藩上層部に食い込む可能性が多くなるということでもある。

「中村の言うとおりだ。特に会読は卒業云々だけでなく将来藩政に携わるようになったときに重要になってくる。己の考えも述べられぬ愚か者は佐賀には必要ない。逆に身分が低くても良き意見を奉り、藩の利益になる者は重用する!」

 その瞬間、その場にいた高学年の者、特に中級、下級藩士の子弟達の目の色が変わった。

「確かに中村殿や井内殿は家格はそれほど高くはないものな」

「てっきり殿のご学友だから重用されているのかと思ったら・・・・・・俺達にも機会はあるんだ!」

 はしゃぐ下級藩士達だが、それに水を差す者が現れる。

「ふん、それはどうかな。貴様らに俺達上士が負けるとでも思っているのか。実力で叩き潰さなきゃ解らないようだな!」

 それは親の反対を押し切り、ようやく弘道館に入学する事ができた上級藩士の子であった。負けん気を露わにして一触即発状態に陥るがそれも講師達によって止められる。だが、この熱気――――――努力をすれば報われ、家禄の増加、出世に直接結びつくという気概は藩を活性化させ、後の発展へと直接繋がってゆく。斉正はそんな若者達の様子を見つめながらほっと胸をなで下ろした。



 斉正の挨拶、そして茂真の説明が終わった後、弘道館では早速講義や稽古が始まった。どの講義室も一様に真剣で、斉正でさえ足音を忍ばせて各講義室を見学しなくてはならないほどである。 

「し、のたまわく、学びておもわざれば、すなわちくらし、おもいてまなばざれば、すなわちあやうし」

 可愛らしい声が蒙養舎から聞こえてくる。中を覗くと授業板という木製の台を前にして少年というには幼すぎる子供達が論語を素読していた。

 蒙養舎では『大学』や『論語』などの素読と、教師の傍らで繰り返し読む『返読』を徹底して行う。
 もう少し年長の、十二歳前後になると漢字や文法を覚えて独力で読む『独り読み』に移り、習字、作詩も開始する。そこまでが基礎教育である。本格的な勉学は十七歳以上から入学が許される内生寮、拡充局からと言って良いだろう。
 内生寮・拡充局の高等課程になると会読と言われる討論が中心となり、教師の講義も加わる。これにより四書五経などを徹底的に読み解く力、さらには自身の意見を述べる力を身に付け、藩政に生かそうと斉正らは考えたのである。

 弘道館のような課程を分け、進学基準を定めた藩校はこの時代極めて少ない。本格的な学校の組織化は明治中期以降まで待たねばならないが、その芽となる形はこの時すでに弘道館に存在していたと言っても過言ではない。だが、斉正にはまだまだ物足りない部分があった。

「兄上、やっぱり蘭学寮は難しかったですか」

 見学を終え、藩主臨校の間に戻った斉正は、藩主用に設えられた黒塗り授業板の前に座ると少しがっかりしたようにこう漏らした。

「ええ。そもそも蘭学を教えられる者がいないのです。それにあれは医者の学問だと皆厭がってしまって」

 外国船が日本各地に出没している今、幕府からもさらなる軍備強化を求められている。だが、武器を輸入するにしても上限があるしそもそも金銭的な余裕がない。さらに新しい情報を入手してもそれを理解出来る者がいないのである。

「武雄の方はどうなっているのですか?あちらは幕府からの指示を受けて大砲や鉄砲隊を揃えているのですから・・・・・・」

 蘭学を教授できる者がいるのではと淡い期待を抱く斉正だが、それは茂真によって一蹴されてしまった。

「それで手一杯みたいです。武雄殿は細々と研究をされているみたいですが、事が事だけに無理強いも出来ませんし、本格的に蘭学を学ぶとなると費用もかさみます」

 斉正のように蘭学に興味を示す武士は身分が下になればなるほど少なくなってゆくし、そもそも蘭学と接する機会も殆ど無いに等しい。そんな彼らに蘭学を学べ、というのはなかなか厄介なものがあるのだ。

「・・・・・・学術書だけでも少し揃えておくか。どのみち必要になるものだし、法に引っかからない程度なら構わぬだろう」

 本当ならば斉正自身が蘭学を学びたくてしょうがないのである。毎年阿蘭陀船の長崎入りの際には顔を出しているのだが、未だ挨拶と簡単な会話程度しか理解出来ないのが歯がゆくてしょうがない。だが、その前に書籍など必要なものを揃えなければならない。せめて武雄藩にある程度の書籍は必要だろう。

「解りました。姫君様にも御口利を頼んで少しでも多く輸入できるとありがたいのですが・・・・・・」

「そうだな。私からも国子殿に頼んでおこう」

 この次の年に始まる『天保の改革』という名の政治の嵐など思いもせず、二人は夢を語り続けた。



 斉正と茂真が将来の夢を語り合っている頃、盛姫の許に弘道館移転の正式な書状が届いていた。

「寄宿生の給食は一日に米五合。朝は漬物、昼は少しおかずがあり、夜はご飯と塩ときたか・・・・・・貞丸は昌平坂に喧嘩でも売ろうとしておるのか?」

 斉正からの書状を見てクスクスと盛姫が笑う。

「昌平坂だって他藩と比べれば決して悪い待遇ではございませんよ?米は一日四合も出ますし、朝は漬物、昼はみそ汁が出るんですから。確かに夕飯は出ませんけど、何だかんだで誰かに食べさせて貰えるんですから、それだけあれば充分でしょう」

 風吹はそういうが、実際は朝、晩のご飯を残して夕食に宛てていたというのが実情である。全国の優秀な人員を集めた江戸昌平坂学問所でさえこれである。弘道館の待遇がいかに優れているか判るだろう。

「もしかしたら・・・・・・貞丸は人材を他所の国から呼び寄せようとしておるのかもしれぬ。でなければこの待遇はないであろう」

 弘道館の食事の待遇、そして厳しい講義内容は尋常ではなかった。藩の立て直しだけを考えるのであればここまでのものは必要ない。
 建前上学費の支払いもあるが、それはあくまでも中元・歳暮の挨拶程度のものであり、実際の費用は藩が出している。斉正が藩主になりたての頃、百七十石だった弘道館の予算は天保六年の火事の際には二百四十石、そして今回さらに千石に増加したのである。
 何かを企んでいる――――――そう思われても言訳できない予算の組み方であり、待遇である。

「それこそ『お船』を作りかねない勢いでございますね」

 じゃれつく濱をあしらいながら風吹は笑う。子供が出来たためなのだろうか、それとも佐賀で諜報活動をした数年間がそうさせたのだろうか、風吹はさらに頼りがいがあるような気がする。皆が成長している中、自分一人が取り残されていくような、寂しい思いに盛姫は囚われる。

「妾も・・・・・・この子らと共に学び、成長してゆかねば貞丸に愛想を尽かされるの」

 ようやく歩き始めた責姫を膝に乗せながら、盛姫は冗談とも本気ともつかない言葉を呟いた。その時である。

「あれぇ!!」

 不意に甲高い女の悲鳴が聞こえてきたのである。

「何事か!」

 風吹が立ち上がり、それに驚いた濱が風吹の脚にしがみつく。盛姫の膝の上の責姫は大声で泣き出し、女官達も慌ただしく動き出し始めた。

「どうやら表屋敷で何かあったようです。只今聞いて参ります」

 颯の言葉に緊迫感がいや増す。盛姫は泣き続ける責姫を抱えたまま、唇を噛みしめた。



UP DATE 2010.12.22

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弘道館の鬼カリキュラムが正体を現しました。進学塾の入試直前正月合宿じゃないんだから・・・・・ってぼやきたくなるようなハードスケジュール、しかもこれが卒業試験に合格するまで続きますからねぇ。次回出来れば書きたいのですが25歳までに卒業できないと家禄が没収されたらしい・・・・・(まだこれから詳細は調べるところです^^;)

また、いわゆる小・中学校に当たる蒙養舎もこの移転と同時期に開設されたそうです。やっぱり幼いうちから教育をきちんとしなくては、と思ったのでしょう。この時期にいる子達は将来反射炉製造に携わると思われますのでそういうのも楽しみにしてやってくださいませv(大隈重信など明治維新に関わってくる人物はまだ赤ちゃん・・・・・どちらにしろ名を残す人物は弘道館に入学します。約一名一時期退学になったりしておりますが・笑)


次回更新は12/29、は江戸で起こった悲鳴の正体が中心となります。おなごの悲鳴ですので大したことは無いと思いますが、この話のタイトル『葵と杏葉』はここから発生したというアイテムが出て参ります。そして次回で丁度話の半分、通しで75話になるんですよね~。色んな意味で区切りの話になりそうなので頑張りたいと思います(^^)
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