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「葵と杏葉」
葵と杏葉・改革編

葵と杏葉改革編 第十五話 弘道館・其の参

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 表屋敷から聞こえてきた女性の悲鳴に黒門内が騒然とする中、颯は御半下のよねと共に表屋敷へと出向いた。御半下は風呂焚き、水汲み、女主人の駕籠かきなどの重労働を行う役職の者だが、ことによねは父親が道場主をしているだけに武術も達者である。何か有事があった場合にと颯は腕が一番立つよねを用心棒代わりにお付きにしたのである。
 颯が出向き、見張りの侍に先ほどの悲鳴の状況を調べに来たと告げると、彼らは驚くほどすんなりと颯を表屋敷に通した。どうやら黒門からの使者は拒絶してはならぬと厳しく達しを受けているようである。
 だが、それに拍子抜けしている場合ではない。颯は即座に悲鳴の聞こえた表屋敷の中庭へと足を運ぶ。そこでは納戸にしまい込まれた品物の虫干しが行われ、その中央に女達が輪になってざわざわと騒いでいた。

「一体何の騒動じゃ!黒門にまで悲鳴が聞こえたぞ。姫君様やちいさ姫が驚いてしもうたではないか!」

 黒門の中では目立たないが、やはり颯も大奥育ちの女性である。鋭い口調で表屋敷――――――正確には表屋敷に面した庭にいた女性に対し詰問した。

「お・・・・・・お女中様!」

 颯に気がついた女達が慌ててその場に土下座する。

「お、お騒がせいたしまして誠に申し訳ございませぬ!本日、江戸家老様の命により納戸の虫干しをしておりましたら、このような事に・・・・・・」

 女達の中で一番年配の女が颯の詰問に答えた。どうやら女は江戸詰の藩士の妻らしい。本来ならば藩邸に勤めている男達が行わねばならぬ虫干しなのだが、天保六年の人員削減の影響で人手が足りず、その妻達に虫干しを任せていたのだろう。そして女が手にしたものを見て颯は眉を顰めた。

「これはまた・・・・・・ひどい食い荒らされようじゃの。鼠か?」

 それは『月影』の琴柱箱であった。本来、黒漆に杏葉紋があしらわれた美しいものだったに違いないのだが、いかんせん鼠にかじられ見るも無惨な姿になっていたのである。

「昨年、人手が足りずに虫干しを疎かにしていたらこのような事に・・・・・・よりによって『月影』の琴柱箱に傷を付けてしまいました。家宝にこのような傷を負わせてしまい、夫達の腹一つで済むかどうか・・・・・・」

 年配の女の言葉に、後ろに控えていた女達も声を押し殺して泣き出し始める。確かに管理不行き届きは否めないが、それは全て藩主自らが決断した人員削減によるものである。それを目の前の藩士の妻やその夫に全て押しつけるのはあまりにも酷だし、何よりこれ以上人員が少なくなってしまっては江戸藩邸の機能が麻痺してしまう。

「待ちやれ。たかが杏葉紋の琴柱箱如きで大仰な・・・・・・・中の琴柱は無事なようだし、箏本体は無傷なのであろう?」

 葵の紋以外、颯にとっては『たかが杏葉紋』なのである。その物言いに年配の女は少しむっとした表情を浮かべたが、相手は本来自分と口をきく事も許されない高い身分の女官である。迂闊な事を零して気分を害してしまってはさらに状況は悪化するだろう。

「さようでございます」

 年配の女は苛立ちを押し殺し、颯に頭を下げた。

「だったら問題なかろう。その琴柱箱と対の琴爪箱を貸しや。江戸家老の鍋島には姫君様の名前で一切の咎め無きように言うておくから安心せよ」

 こういう優しさが下の者に舐められる原因だといつも風吹に怒られる颯だが、こればかりは性分である。颯はぼろぼろになった琴柱箱とそれと対になっている琴爪箱をよねに持たせると、いそいそと黒門へ引き上げていった。


 表屋敷から颯が帰ってきたとき、未だ黒門の中は騒然としていた。

「颯、一体表で何があったのじゃ?早う報告せよ」

 未だぐずっている責姫を抱いたまま、盛姫が颯を促す。

「御意・・・・・・ただ、あまりにも間抜けな話で拍子抜けされると思われまする」

 笑いを押し殺しながら、颯は部屋の外に控えていたよねからぼろぼろになった琴柱箱一式を受け取り、皆の前に披露した。それを見た瞬間、今まで張り詰めていた部屋の空気が途端に緩む。

「またものの見事に囓られて・・・・・・表屋敷の鼠はよっぽど腹をすかせておったのかの」

 一部穴さえ空いてしまっている琴柱箱を見た盛姫は、耐えられず本気で笑い出した。それにつられて傍に控えていた女官や風吹にしがみついていた濱まで笑い出す。

「姫君様、かように笑っては表屋敷の藩士の妻達があまりにも気の毒でございます。腹を切る、切らないの大騒ぎだったのですから」

 そう言いながらも当の颯も耐えられず笑っている。ひとしきり笑った後、盛姫は片腕に責姫を抱えたままぼろぼろになった琴柱箱に触れた。

「しかし、佐賀藩の至宝である『月影』の琴柱をこのようなぼろぼろの箱に入れて置く訳にもいかぬ。梓、妾の琴柱箱を持って参れ。確か納戸にしまい込んであるはずじゃ」

「御意」

 盛姫に命じられた女官は納戸へと下がっていく。

「姫君様、また良からぬ事を考えておりますのでしょう」

 部屋から出て行った梓の背中を見送りながらそう指摘したのは風吹であった。こういう所はやはり風吹の勘が一番鋭い。

「良からぬ事とは心外な。『月影』は浜御殿で父上にも賞賛されたほどの名器じゃ。鍋島家に代々伝わる『月影』の琴柱を一つでも痛めてしもうたら悲しむのは貞丸だけでは済まぬ。それに・・・・・・」

 風吹の疑わしげな視線に対して盛姫は意味深に笑う。

「琴柱を引っ張り出してしもうたら妾は嫌でも箏の稽古をせねばならぬ。これは神仏のおぼしめしじゃと思うことにしよう」

 盛姫の意外な言葉に毒気を抜かれた風吹は半ば呆れ、しかし半ばほっとした声を上げた。

「あれほど箏の稽古を嫌がっていた姫君様とは思えぬお言葉・・・・・・気がお変わりにならぬうちに早々に事に取りかかりましょう」

 元々箏が苦手な盛姫である。この決意がいつまで続くか判らないと風吹がちくりと言ったその時、梓が葵の紋が施された琴柱箱を持って部屋に帰ってきた。



 佐賀藩江戸家老が黒門に呼び出されたのは四半刻後であった。黒門に呼ばれる前に『月影』の琴柱箱の件を藩士の妻達から聞かされていたのか、彼の貌は真っ青である。よりによってこのような不手際が黒門に先に知られてしまうとは思いもしなかったのだろう。その悲壮感漂う姿に盛姫は次のように江戸家老に命じた。

「月影の琴柱箱の件、あれは表まで気が回らなかった妾の落ち度じゃ。ただでさえ人手不足の折、鼠に囓られてしまったのは致し方がない。この件において誰一人勝手に責任を取る事は妾が許さぬ」

「ははっ!」

 不手際の処分について先に盛姫から釘を刺された形になってしまい、江戸家老はこれ以上頭を下げられないほど頭を下げる。

「風吹、あれを」

 盛姫の促しに風吹は美しい蒔絵が施された琴柱箱を江戸家老の前に差し出した。その琴柱箱には葵御紋と浪に千鳥の蒔絵が施されている。そして対になっている琴爪箱には桜花に琴柱文様が蒔絵されており、一目で盛姫の持ち物である事が無粋な江戸家老にも判った。どんな江戸家老に対し、今度は風吹が語りかける。

「姫君様のご厚意じゃ。追々杏葉紋の琴柱箱は作らねばならぬだろうが、しばしの間葵紋の琴柱箱を貸与する故、管理を怠らぬでないぞ」

「ははっ!」

 風吹の脅しとも取れる言葉に、江戸家老はただただ平伏する事しか出来なかった。



 鼠にかじられた琴柱箱の話は『藩主夫人からの詫び』という形を取り、盛姫から斉正に知らされた。

「江戸藩邸の賄所が貧相すぎて、鼠の食べ物にも困っているんでしょうかねぇ。まさか琴柱箱が囓られるとは」

 茂真が笑いを堪えきれず吹き出してしまう。

「あり得ない話ではないかもしれんな。佐賀より江戸藩邸の方が倹約は厳しいらしい」

 久しぶりに斉正に顔を見せに来た茂義が、茂真の冗談に頷いた。

「しかしどちらにしろ琴柱箱はまた誂えないと。いつまでも国子殿に迷惑を掛ける訳には・・・・・・」

 そう言いかけた斉正の言葉を、茂義が遮る。

「いや、どうやら『怪我の功名』で上手い具合に事が運んでいるらしい。風吹から来た手紙なんだが・・・・・・」

 茂義が珍しく自分宛に届いた風吹からの手紙を開く。そこには琴柱を仕舞う事が出来なくなった盛姫がようやく箏の稽古を――――――『姫君の教養』を嗜む気になったらしいと嬉しげに書かれていた。

「確かに、事あるごとに国子殿は箏から逃げていたから」

 斉正も風吹からの手紙を読んでクスクスと笑う。

「国子殿さえ許していただけるのなら、暫く琴柱箱をお借りしようか」

 それは年上の優しい妻に対する斉正の『甘え』の表れでもあった。



 この時代、個人の財産は半紙一枚に至るまできちんと管理されていた。たとえ一文であっても妻の財産を使ってしまった夫はその財産を返却しない限り『三行半』を突きつける権利さえ失う。
 そんな時代において大名が妻の持ち物を使うということはまずあり得ないのだが、この二人に関してはその仲の良さからか『特例』が許されたのだろう。結局この琴柱箱は、ある事情から盛姫に返される事なく斉正が一生持ち続ける事になる。



 移築してから三ヶ月、秋が深まっても弘道館は盛況であった。特に斉正からの命令で『二十五歳で卒業しても、四十歳までは定期的に弘道館で講義を聴くように』との通達が出されたため、熱心な者達は年令に関係無く進んで弘道館に脚を伸ばしているのである。

「では、弘道館に行ってくる。八太郎を頼んだぞ」

 それは今年三十七歳の大隈信保にとっても変わりはなかった。特に鉄砲組頭という地位だけに新たな知識の吸収は必須だし、元々勉学は嫌いではない。信保は幼子を抱きかかえている妻の三井子に対しそう言い残し出かけようとする。

「今日も弘道館でございますか?」

 柔らかい笑顔を少しだけ曇らせて、三井子は信保に尋ねた。

「お義父さまが・・・・・・旦那様の弘道館通いに対してお小言を言われるのです」

 三井子は言いにくそうに信保に義父の小言を信保に伝えた。これも世代間の価値観の違いと言ってしまえばそれまでなのだが、間に挟まれた三井子にとっては堪ったものではない。だが、そんな三井子の困惑も信保は半分聞き流していた。

「老人の戯言なぞ気にする事はない。何せ殿の御命だ」

 信保は二年前に生まれた長男・八太郎の頭を撫でながらにっこり微笑む。何せ三井子が三十三歳になってようやく生まれた男の子であるだけに、信保の溺愛振りも半端ではない。

「我が大隈家は先祖代々三百石の知行を与えられている上士の家柄だが、いつその知行を召し上げられてしまうか判ったものではない。折角殿が我々のような年長の者にも弘道館で学ぶ権利をお与えくださったのだ。これを無為にする事は許されぬ。それと・・・・・・」

 信保は声を落とす。

「これは誰にもいうてはならぬぞ。俺は、八太郎を・・・・・・請役側人にしたいのだ」

「な、何と大それた・・・・・・!いくら八太郎が可愛いからと言っても、あまりにも・・・・・・」

 良人の野望に三井子は目を丸くする。そして、どうやら信保はその為に偵察がてら弘道館に通っているという事に三井子はようやく気がついた。

「だから誰にも言うてはならぬのだ。大隈家より格下の家の者が側人になって政治の中枢に食い込んでいるのだ。学さえあればこの子だって・・・・・・もっと上を目指す事が出来るのだ」

 我が子かわいさからくる信保の野望に三井子は震え、胸に抱いた八太郎を強く抱きしめる。だがそんな信保の野望が矮小なものに思えてしまうほどこの幼子は出世する。
 幼名八太郎――――――後に大隈重信と名乗るこの幼子は、二十三歳の時に藩主・斉正に蘭学を教授し、さらに明治維新の立役者の一人となる事を、両親であるこの二人は予想さえすることは出来なかった。



UP DATE 2010.12.29

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『葵と杏葉』、ちょうど半分にあたります改革編第十五話目ですvようやくここまで辿り着いたという安堵感と、まだまだこれからという気合いが半々という所でしょうか。予定では2012年の9月か10月まで連載は続く予定でおりますので宜しかったらお付き合いのほど、よろしくお願いいたしますm(_ _)m

今回出てきました琴柱(ことじ)箱、徴古館さまの収蔵品の中にあったものです。もしかしたら以前エッセイか日記で書いたかも知れないのですが、葵の御紋の箱に入っていながら中身には鍋島家伝来の箏の琴柱が・・・・・という、当時の常識としては非常に奇妙なブツなのです。(『武士の家計簿』にも書かれているように夫と妻の会計や持ち物は別々、というのが当時の常識です。何かあったら即離婚、という時代ですから現代以上に個人の財産に関してはシビアだったみたい・・・・・。)
これに心引かれて、話のタイトルも『葵と杏葉』にしてしまったというお気に入りの逸品です(笑)。何故『月影』の琴柱が葵紋の箱に入っているのか、そして何故杏葉紋の琴柱箱が再度作られなかったのか、私個人の勉強不足でよく判らないのですが、そこのところは妄想で補ってゆきたいと思います。

そして出てきました、大隈八太郎こと大隈重信(爆)。遅くに生まれた子供だったので相当両親に溺愛されていたみたいです(手許の本には腰に挿した刀(たぶん玩具)をはずすなり母親の乳房に吸い付いて甘えていた、とあります。当時は子供が納得するまでお乳を吸わせていたらしい・・・・・。)
さすがに早稲田大学の創始者に対してお乳ネタを書くのは何なので今回の話で両親の溺愛振りを表現してみたんですけど・・・・・成長するとかわいげが無くなるのはいつの時代でも同じです(爆)。大隈重信本人の活躍はもう少し後、開国編後半から維新編になります。


次回更新は1/12、ようやく軌道に乗り始めた斉正の改革を、水野忠邦による天保の改革が妨害を始めます。

今年も『葵と杏葉』にお付き合いいただきありがとうございました。宜しければ来年もご贔屓のほどよろしくお願いいたします。
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