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「葵と杏葉」
葵と杏葉・改革編

葵と杏葉改革編 第十六話 大御所供養と天保の改革・其の壹

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 どんなに華やかで,長きにわたる人生もいつかは終わる――――――それはどんな権力者であろうとも市井の貧乏人であろうとも平等に訪れる人としての宿命である。たとえ人並み外れた壮健を誇り、五十年の長きにわたって将軍職を務め隠遁しても尚絶大な権力を得ていた家斉でさえもその宿命から逃れる事は不可能だ。
 大御所の逝去――――――それは天保十二年閏一月七日の事であった。ようやく寒さが緩み始めた日の朝、将軍家斉は誰にも看取られる事無く息を引き取ったのである。前日まで特に問題なく生活をしていたのだが、眠っている最中そのまま息を引き取ってしまったらしい。朝の身支度のため寝所に家斉を呼びに来た小姓が異変に気がついたのである。
 ある意味病に苦しむことなく平穏に死を迎える事ができたのは、家斉本人にとっては幸せだったのかも知れないが、大御所周囲はそういう訳にもいかない。

「大御所を看取る事さえできなんだとは・・・・・・侍医どもは何をしていた!」

 家斉と共に西の丸に隠遁していた大御台所の怒りを始め、すでに家慶が主となっている江戸城本丸中枢においても責任問題に発展、侍医長であった吉田成方院は責任を問われ処罰された。さすがにこのような不祥事をそのまま表沙汰にする訳にも行かず、さらに葬儀やその他諸々の手続きの為、将軍の死は閏一月三十日まで関係者以外秘匿されることになる。



 そんな中、家斉の死は他家へ養子に入ったり嫁いだりした家斉の子供達にも極秘裏に知らされた。盛姫の許にも家斉が亡くなってから五日後に西の丸から家斉の死が知らされ、取るものも取りあえず西の丸へ押しかける。

「大御台の母上様!父上様が・・・・・・大御所がお隠れになったというのは誠でございますか!」

 挨拶もそこそこに大御台所の前に参上した盛姫は、せき立てるように大御台所に尋ねた。その顔色は蒼白で、父を亡くした悲しさよりは急な訃報への驚きの色が濃い。

「盛姫、あなたは三十を超えても子供のように・・・・・・慌ててやってきても大御所が生き返る事は無いのですから、少しは落ち着きなさい。それに葬儀は後日、まだまだ準備に時間がかかるのですよ」

 家斉の死に昂ぶっている盛姫を宥めるように、大御台所――――――すでに落飾して尼僧姿になってしまった盛姫の育ての母は、あえて落ち着いた口調で盛姫に語りかけた。

「しかし・・・・・・」

 尼僧姿で自分に語りかけてくれる大御台所を前に盛姫は言葉を失う。父・家斉の亡骸を見るよりも、老いてなおその美しさを誇っていた大御台所が髪を下ろした姿に、盛姫は家斉の死が現実である事を自覚したのだ。盛姫の中で驚きが徐々に収まるのと同時に、ようやく父を失った悲しみが沸き上がり、その目に涙が溢れ始める。その涙を見て、大御台所は優しく頷いた。

「勝手気ままなお方じゃったが、亡くなる時までとは・・・・・・おかしゅうてならぬ。まったく,どこまで周囲を振り回せば気が済むのやら。本当に、妾が縁者として一橋徳川家に入った頃から全く変わらぬお方じゃ」

 その瞬間、大御台所の目の縁にきらり、と光るものが見えた。

「盛姫・・・・・・いいえ,国子。通夜や葬儀の時は年寄りの昔話に付き合うてもらいますよ」

 その声は家斉の奥向きを取り仕切る『正室』という名の役職のものではなく、妻として良人の死を悲しむごくありふれたものであった。政治的采配が先に立ち、良人の死に涙する暇さえ今まで無かったのだろう。盛姫を前にようやく見せる事ができた一粒の涙であった。

「勿論です、大御台の母上様。いいえ・・・・・・是非父上様と母上様のお話を伺わせてくださいませ。宜しゅうお願い申し上げます」

 そう答え、頭を下げた盛姫の頬は涙に濡れ、乾く事はなかった。



 大御所を失った西の丸において女達が思い出にふける中、江戸城本丸における政治はすでに次に向かって動き出していた。非情と言えばあまりにも非情だが、財政難の上に外国船が日本近海に頻繁に現れるようになっている最中、大御所の死を嘆いている暇は江戸城本丸にはない。

 家斉が死んだ事によって名実共に将軍となった十二代将軍・家慶は、自身の四男・家定を将軍継嗣に決定、老中首座の水野忠邦に命じて家斉派の粛正を行わせるよう即座に命じた。

 さすがにすぐさま行動に移す事は憚られたが、公的な将軍の死、すなわち閏一月三十日から数えて四十九日が過ぎた直後から家慶の勅命は実行される。水野は若年寄の林忠英、水野忠篤、美濃部茂育ら西丸派勢力や大奥に対する粛清を行い人材を刷新、重農主義を基本とした天保の改革が始まった。



 だが、盛姫が江戸城本丸のその様な動きを知る訳もない。父親の死に対し悲しみにくれながら外桜田にある佐賀藩邸に戻っていった。

「風吹、この世はあまりにも無情じゃな」

 西の丸から帰るなり盛姫はぽつり、と風吹に対して呟いた。

「姫君様・・・・・・一体何があったのでございますか?大御所様がお隠れになっただけとは思えぬほどの落ち込みようでございますが」

 風吹が責姫と濱をあやしながら尋ねる。さすがに幼い頃から盛姫に仕えているだけに、盛姫の僅かな変化にも敏感に察知するのはさすがだ。

「おたあさま、どうちたの?」

「ひめぎみさま、なにかあったの?」

 風吹の心配そうな声色に反応したのか、責姫と濱も風吹の手を離れ、盛姫の顔を心配そうに覗き込んだ。年が明け、三歳と四歳になった二人の幼子は可愛い盛りで、盛姫を始めついつい甘やかしてしまうのだが、さすがに乳母であり母親である風吹が厳しい故か二人ともこの年齢にしては行儀が良い。そんな二人を両腕で抱きかかえながら、二人の幼子を心配させないように盛姫はできるだけ優しく穏やかな声で風吹の問いに答えた。

「父上様が・・・・・・健子のお爺さまがのう、誰にも看取られずにお隠れになったそうじゃ」

「な、何と!」

 風吹も信じられないという表情を浮かべた。仮にも大御所と呼ばれ、この国で一番権力を持つ男が誰にも看取られることなく亡くなるとは信じられないのだろう。風吹は思わず声を荒らげてしまう。

「大御所様が誰にも看取られずになどと・・・・・・そんな事が許されるはずがございませぬ!担当の侍医は一体何を・・・・・・」

「勿論侍医長は罷免じゃ」

 盛姫は風吹の声に驚いてしまった責姫と濱をあやしながら話を続ける。

「せめてもの救いは苦しまずに浄土へ旅立った事じゃろうな。苦しめば誰かが気が付いたであろう・・・・・・皮肉と言えば皮肉じゃが」

 そうは言ったものの、盛姫の言葉に微かな苦さが含まれている事に気がつかぬ風吹ではなかった。しかし風吹はあえて何も言わずじっ、と盛姫を見つめる。そんな風吹の視線に耐えられなくなったのは盛姫の方であった。

「・・・・・・したが、妾にも罪悪感はある。父上様の供養のために喪が明けるまで写経をしようかと思う。それでなくとも、この世で悪さをして大御台の母上様を散々泣かせたお人じゃから」

「・・・・・・それは良い事だと思います。私も、ご相伴させて戴いても宜しいでしょうか」

「・・・・・・父上様に肘鉄を喰らわせた風吹が写経をしてくれるとは、父上様も浄土で喜ぶであろうの」

 風吹の申し出に盛姫は寂しげに微笑み、それを許す。そして次の日から盛姫と風吹、さらには黒門の女官達全てが参加する家斉追悼の写経が始まった。それだけなら普通の写経で終わったかも知れない。だが、二人の幼子がいる中の写経が無事に済む訳がない。このひと月後、愛らしくもやんちゃな二人の童子によってとんでもない事件が起こる事になる。



 水野忠邦の天保の改革は、将軍家斉時代の恩恵を受けてきた人々にとってあまりにも過酷なものであった。そしてその改革にまず反対したのは大奥である。

 水野の改革は姉小路ら数人の大奥女中に抵抗され、改革の対象外となってしまったのだ。水野の倹約令には納得できぬと大奥からの強力な反対は、水野の老中としての身分をも危うくするものである。実際寛政の改革を実行した松平定信は大奥から嫌われ失脚している。改革を成功させるため、水野も不本意ながら大奥は例外とした。

 そしてのちに水野を苦しめる事になるのが意外な事に『水野の三羽烏』と呼ばれた鳥居耀蔵、渋川敬直、後藤三右衛門と言われた水野の配下達であった。朱子学の大家・林家出身で蘭学嫌いの鳥居や、逆に蘭学書を独占し、自分の出身である天文方の権威を高めようとする渋川、金座や銀座を一手に支配している豪商の立場を悪用し、悪鋳によって私腹を肥やす後藤は水野本人より性質が悪い。だが、残念な事にその危険性を認知していた人物はこの時点で極めて少なかった。



 そんな極めて少ない人物の一人に幕府韮山代官・江川英龍がいた。江川英龍が武雄を訪れ、軍事教練及び大砲鋳造を見学した。建前上は外国船の驚異に備えて、という事であったが実際は幕府の新たな中枢への対策の相談である。

「武雄殿、あちらでは厄介な男が目付から江戸南町奉行の職に就くとの噂で持ちきりですよ。それと書物奉行も面倒な男が就任しそうです。奴等が動き出す前に本藩と対策を練った方が良いでしょう。それがしは佐賀城下に入る事を許されていないので是非とも武雄殿から佐賀公に話を持ちかけて欲しいのですが」

 江川は軍事訓練を見学しながら早々に茂義に告げた。鉄砲の銃声が響く中での会談はついつい大声になってしまうが、周囲に聞かれる心配も少ない。

「厄介、とは?確かに水野殿はあちらこちらの規制を厳しくしてるが、我が佐賀藩や武雄領内に比べたらぬるま湯のようではないか。あんたがそこまで言うような相手には思えんが」

 江川の神経質なまでの警戒感に茂義は疑問を呈する。徳川家の姫である藩主夫人にさえ例外を許さぬ厳しい倹約令を敷いている佐賀藩に比べたら、大奥の妨害が目に見えている幕府の改革は生ぬるいものにしかならないと茂義は思ったのだ。しかし、そうではないと江川は頭を振る。

「いや、筆頭老中殿は別段問題ありませんよ。厄介なのはその下についている三羽烏の一人、鳥居です。あの蘭学嫌いについては『蛮社の獄』の前歴がありますから・・・・・・それがしも危うく連座させられるところでした」

 肩をすくめながら答える江川に、茂義は疑わしげな視線を投げつけた。

「連座・・・・・・だぁ?あれはあんたに対する鳥居の個人的な恨みから始まったんだろうが。粛正の『原因』が、まるで他人事のように言ってくれるじゃねぇか」

 茂義は笑いながら江川の方を軽く叩き、江川はふざけながら大仰に痛がるふりをする。

「痛っ!まったく武雄殿は相変わらずですな。四十半ばとは思えぬほど乱暴なんですから」

 茂義と一歳違いの幕府代官はまるで子供のようにはしゃぐが、不意に眉を曇らせた。

「・・・・・・単に学問の分野だけの口出しならまだしも、国防に口出しをされる可能性もあります。ま、水野殿は国防における西洋砲術の導入に熱心なお方だから暫くは大丈夫でしょうけど・・・・・・何せ鳥居は林家出身の極度の蘭学嫌い、渋川はそれを利用して蘭学書を自分の所に集めて独占しようとしています。蘭学を嗜む者にとって厄介な奴等ですよ」

 まるで鼠か油虫を間近で見てしまったような露骨な嫌悪感を江川は露わにする。それは身分を問わず蘭学を嗜む者全員の意見であった。勿論茂義もそのうちの一人であり、江川の意見に同調する。

「ああ・・・・・・まぁ、そのとばっちりが我らに及ばない事を願うだけだな。それこそ『蛮社の獄』の連座を免れたあんたの強運を分けて貰いたいものだ」

 冗談とも本気ともつかない言葉を呟き、茂義は大笑いした。



 江戸と佐賀は極めて遠い。中央での改革はあまりにものんびりしたものに茂義は思えた。しかし、この忌まわしい改革は真綿で首を絞めるようにじわりじわりと佐賀藩を苦しめ、二年後の天保十四年にかけがえのない一人の技術者を失う事になる。



UP DATE 2011.01.12

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皆様、お待たせいたしました。二週間ぶりの『葵と杏葉』です(^^)そして小話のサブタイトルも散々悩みましたが結局『大御所供養と~』という事に。これはこの時期盛姫が專念寺に帰依したり、家斉供養の写経でつくった『こより』から『こより地蔵』なるものを作ったという伝説があるところから『大御所供養』の文字を入れさせて戴きました。

家斉の死によって一つの時代が終わり、本格的に幕末へ向かって時代が動きます。そのちょっと前になりますかねぇ天保の改革は。この改革によって佐賀では死者も出しましたし、二年で失敗する改革にしては結構あちらこちらに被害をまき散らした改革だったようです。佐賀における被害に関しては次回の三話で語らせていただきますね。
そして今回の三話で中心になるのが盛姫が行った供養と専念寺への帰依、そしてじわじわと広がる天保の改革の影響です。特に何故わざわざ写経を『こより地蔵』にしてしまったのか、私なりの解釈で書かせて戴きますのでお楽しみ下さいませ(^^)
(この『こより地蔵』、ネサフしていたら本当に偶然見つけたんですよね~。これもご縁ですのでしっかり取り上げさせて戴きますv)

次回更新は1/19、上記で書かせて戴きました『こより地蔵』の顛末を中心に書かせて戴きます。
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