FC2ブログ

「葵と杏葉」
葵と杏葉・世嗣編

葵と杏葉世嗣編 第二十七話 子年の大風・其の参

 ←拍手お返事&相撲徒然 →横浜慕情 狼の残夢・其の参
 遠くから宵烏の悲しげな泣き声と暮れ六つを告げる時の鐘が聞こえてくる。赤坂成満寺が類焼によって再建できなくなって以来、外桜田の藩邸では芝の梵鐘を利用していた。一説には木更津までその音を響かせることができるといわれた関東一の大梵鐘は、江戸前の魚を驚かせないよう静かに打ち鳴らされ、その腹の底に響く低い音は穏やかに人々の耳に吸い込まれていく。
 さらにその音は意識の奥底にまで届くらしい。梵鐘の音に気がついたのか、気を失っていた盛姫の表情が僅かに動いた。

「ん・・・・・・」

 愛らしい、微かな呻き声と共に長い睫に縁取られたまぶたがゆっくりと開いてゆく。普段はその姫らしからぬ言動から全く意識されることはないが、盛姫は極めて整った顔立ちをしている。皮肉なことにその事を認識させられるのは本人の意識や意思が全くない状況のみに限られるのだが・・・・・・。ただ一人、盛姫の傍で彼女を見守っていた斉正は改めてその事に気付かされごくり、と唾を飲み込んだ。

「国子殿、気付かれましたか?」

 茜色に染まる部屋の中、背中から差し込む夕日の影になって斉正の表情は盛姫から見えないだろう。だが、斉正はその事を却ってありがたく思っていた。今の自分はきっと頼りなげで、不安に満ちあふれた情けない顔をしているに違いない。そんな表情を倒れてしまった盛姫に見せたくない――――――以前の斉正であれば思うことさえしなかったそんな感情がわき上がってくるのを、まるで他人事のように斉正は冷静に自覚していた。

「さだ・・・・・・まる、か?」

 優しく自分に語りかける良人の声に、盛姫は顔を向ける。まだ意識がぼんやりしているのだろう、普段ほどその瞳に力は無い。それはそれでかわいらしいと思うのだが、普段の盛姫を知っているだけに斉正には物足りないし、それ以上に盛姫の状態が心配であった。

「はい、私です。お加減は如何ですか、国子殿」

「妾は大丈夫じゃ」

 決してそうは思えない、弱々しい声で盛姫は斉正に応える。

「ところで、皆は・・・・・・?」

 部屋に自分と斉正しか居ないことにようやく気がついたらしい。盛姫は当たりをきょろきょと見回し始める。

「女官達は持ち場へついております。茂義は表に戻っておりますが」

 ようやくいつもの盛姫らしさが戻りつつあることにほっとしながら、斉正は盛姫の額に掌を乗せた。少し熱っぽい気はするものの心配する程ではない。滑らかな肌の感触をもう少しだけ感じていたかったが、あまり長い間そのままでいれば不審に思われるだろう。名残惜しさを感じつつ斉正はその手を一旦離した。

「貞丸・・・・・・そなたは溺れ死んだ者を見たことはあるか?」

 突如盛姫が斉正にとんでもないことを尋ねる。この時代、特に江戸という町と水死体は切っても切れぬ縁があった。海保青陵が記した『経済話』にはあまりにも水死体が多いので町奉行の同心達は町地の水辺に浮かんだものだけしか調べないと記述されているし、辻番所でも『汐入』で水死体を発見した場合それは届けなくてもよい事になっていた。
 時には藩邸の敷地内にある池や井戸に水死体が浮かび上がる事もあったが、高貴な人間の目に付く前に配下の者がそれらを片付けてしまう。まともな大名生活を送っている限りそのようなものを目にすることは皆無に近かった。

「いいえ。国子殿はあるのですか?」

 まさか、とは思ったが、彼女の性格からすれば何かをしでかしたことがあるのかもしれない。斉正は動揺を悟られないようにできるだけ感情を抑えながら尋ねた。

「妾は・・・・・・一度だけ見たことがある。作り話の怪談なぞ恐ろしいと思わぬが、あれだけは駄目じゃった・・・・・・今思い出すだけでも・・・・・・」

 そう切り出しながら身体を起こし、年下の良人を相手に盛姫は昔語りを始めた。



 それは十年以上も前、斉正と婚約する直前のことであった。父親に付き従って浜御殿に遊びに行った盛姫は父母や従者達の目を盗み、浜御殿の外に飛び出してしまったのである。

「女官達が言っておった『海の水は塩辛い』というのを確かめたかっただけじゃった。その飛び出した先・・・・・・浜御殿の軒下に水死体が流れ着いていたのじゃ・・・・・・」

 あかね色に染まった部屋は徐々に闇色が濃くなりつつある。その色はまるで人間の血の色そのもののような生々しさに満ちあふれていた。そんな血の色に染まった部屋の中、盛姫は小刻みに震え、それでも話の続きを気丈に語り続ける。

「死体は父上に気付かれないうちに片付けられたが・・・・・・あの膨れあがった見目、そしてあの臭いは忘れられぬ」

 盛姫は何かを思い出したのか、両手で口を押さえた。

「たった一つの亡骸だけでもあれほど禍々しく、悲しいものが・・・・・・佐賀中に・・・・・・!」

 そこまでが限界であった。盛姫はがたがたと震えだし己の肩を抱きしめる。幼かった盛姫にとってその死体の姿はあまりにも刺激が強すぎたのだろう。唇を噛みしめるその姿はか弱い一人の女性そのものであった。

「国子殿!」

 再び倒れてしまいそうな程弱々しく見えた盛姫を、斉正は思わず強く抱きしめた。腕の中の盛姫はあまりにも儚げで頼りなく感じられ、斉正は壊れ物を扱うように丁寧に、しかし崩れ落ちないように力を込める。

「国子殿、私が付いております!だから気をしっかりお持ち下さいませ!」

 斉正の力はますます強くなり、盛姫の息は詰まりそうになった。それは今まで感じたことの無かった斉正の中の『男』を感じるのに充分すぎるほどの力である。結婚した当初、自分より頭ひとつは小さかった貞丸がいつの間にか自分より背も、身体も大きくなり自分を強く抱きしめるまでになっている――――――盛姫はその事実を突きつけられ愕然とした。だが、斉正の腕を振り払おうにもその力は強すぎて盛姫の力ではどうにもならない。

「私が・・・・・・佐賀を立て直します!だから・・・・・・」

 そんな盛姫の心中を知ってか知らずか、斉正の手が盛姫の髪に差し込まれ、頬がすり寄せられる。まるで閨事のように甘い行為に斉正自身気がついていなかった。ただ純粋に、恐れおののく盛姫を慰めたいという思いから無意識に出てしまった行動である。しかし、それをそのまま受け入れる心の余裕が盛姫にはなかった。

「そんな戯言を、何を根拠に!」

 その場しのぎの慰めにしか思えぬ斉正の言葉に苛立ちを覚えたという事もあったが、それ以上に抱きしめられた照れ隠しに腕をつっぱり、盛姫は斉正の腕の中から斉正を睨み付ける。だが斉正はその視線に臆することなく盛姫の顔を、そしてその瞳をじっと見つめた。

「今度・・・・・・家督を相続することになったんです。私が藩主になったあかつきには・・・・・・国子殿、あなたを悲しませるような事は致しませぬ!」



 血の色がさらに闇色によって紫色へと変わっていく中、しばしの沈黙が二人の間に流れる。

「家督・・・・・・相続?どういう事じゃ?」

 思わぬ展開に斉正の腕の中で盛姫が怪訝そうな表情を浮かべた。それもそうだろう、斉正の父・斉直は権力を手放すことを潔しとはせず、見苦しいまでに藩主の座に固執していたのである。それなのに何故このじきに家督相続の話が出るのか?訳が分からず盛姫は斉正に先を促す。

「今回の大風で疲弊した佐賀を心機一転立て直す為、新藩主を立てた方がいいだろうと父が言い出したそうです。茂義は『美味しいところばかり散々喰らって手に負えない災害にあった途端に面倒事を投げ出しただけだ』と申しておりますが」

 くすり、と斉正は笑うが、その笑顔もどこかぎこちない。自分がこれから追わねばならぬ重責が判るだけに、素直に家督相続を喜ぶことが出来ないのだろう。闇に霞みゆく良人の表情をよく見ようと盛姫は突っ張っていた自分の腕の力を抜き、斉正の顔を覗き込む。

「私にどれだけの力があるか判りません。もしかしたら道半ばにして倒れるかも知れない。ですが・・・・・・出来る限りのことはするつもりです」

 熱っぽく語る斉正の言葉に盛姫はただ聞き入る。

「ただ、今まで家督相続の準備を全くしていなかったので、その準備だけで一年はかかるそうです。特に金銭面で厳しいところがあるみたいで・・・・・・仕方ないですよね、今までが今まででしたから」

 台風に襲われる前まで、斉直は出来る限り自分の権力を維持しようと相続の準備を全くしていなかったのだが、台風で物理的にも経済的にも損害を受けた藩の立て直しという貧乏くじは引きたくないと藩主としての仕事を投げ出したのである。
 それでなくても長年にわたる斉直の遊興のせいで藩の財政は疲弊仕切っていた。その全てを息子に押しつけ、自分は気楽な隠居を決め込もうという魂胆なのだろう。
 天災が理由ならば藩主としての責を問われることはないし、隠居としての生活保障もして貰える。藩主がやりくりに苦労し、ぼろを着るような生活を強いられても、自身の親である隠居にそこまで強いることは出来ない事を見越しての隠居宣言である。
 さすがに茂義は怒り心頭だったし、風吹当たりもこの話を聞けば激怒するだろう。それほどひどい条件下での家督相続であった。しかし、斉正本人はそれを嘆く様子を微塵も見せず、むしろこれからどうやって藩を立て直そうかという決意と責任に満ちあふれているように盛姫には感じられる。

「ですから暫くの猶予はありますが、再来年の春には確実に私が藩主になります。だから、国子殿をこれ以上失望させないように藩の立て直しに努める所存です。ですからこれ以上嘆かないでください、国子殿・・・・・・」

 斉正の腕に再び力が込められる。その力強さに息苦しさを感じるが、それはむしろ心地よいものであった。抱き合っていてさえ互いの顔が見えるか見えないかの宵闇の中、互いの瞳が熱っぽく潤んでいる事だけは判る。その潤んだ瞳に吸い寄せられるように互いの顔が徐々に近づき・・・・・・。

「姫君様、宜しいでしょうか」

 突如襖の向こうから風吹の声が呼びかけてきたのである。その声に二人は一瞬硬直する。

「く、国子殿、も、も・・・・・・申し訳ありませんっ!」

 斉正は無意識に自分が何をしようとしていたか思い知らされ、慌てて盛姫への縛めを解くなり身体を離した。宵闇で判然としないが、耳まで茹で蛸のように真っ赤になっているに違いない。

「ふ、風吹か・・・・・・構わぬ、入って参れ」

 そしてそれは盛姫も同様であった。それこそ爪の先まで桜色に染めつつも動揺を隠し、あえて斉正の謝罪に答えず、襖の向こう側にいる風吹に声をかける。

「だいぶ暗くなりましたので燈明をお持ちしましたが・・・・・・お加減の方はいかがですか?」

 心なしか気まずい雰囲気が漂っていることを感じつつも、風吹はそれをあえて無視して盛姫に尋ねる。

「だ・・・・・・大事ない。心配をかけたな、風吹」

 風吹にねぎらいの言葉をかけながらも、盛姫はこの暗がりに感謝した。しかし、あのままもし風吹が声をかけなかったら一体自分達はどうなっていたのだろうか――――――そのような考えが頭の中をちらりと掠めたが、邪な煩悩にも似たその想像を盛姫は振り払い、外見上はいつも通りの盛姫に戻っていった。
 だが、もう一人の年下の当事者はそう簡単にはいかなかった。もうすぐ十六歳といえば一般的にも女性に対して非常に興味を抱く年頃である。それは『おふね好きでねんねの貞丸』であっても例外ではない。
 しかもただ見つめているだけならまだしも、斉正は勢いに任せて盛姫を抱きしめてしまったのである。男とは明らかに違うその身体の柔らかさ、羽二重のような頬や額の滑らかさ、絹のような髪の感触、そして首筋から立ち上る甘く魅惑的な匂い――――――それを知ってしまった今、子供の純真さのまま盛姫を見ることは出来なくなっていた。

(私は・・・・・・国子殿を・・・・・・)

 確かに今までも好意を持っていた。だがそれは喩えるならば春の日差しにも似た穏やかなものであるのに対して、今斉正が感じているものは自分自身でさえ押さえることが困難な、烈火の如く激しいものである。この想いをどうすればいいのか――――――それを自分自身で考えるには、あまりにも斉正は幼すぎた。



 文政十一年のシーボルト台風により、藩主斉直は正式に世嗣・斉正に藩主の座を譲り渡すことを決意、実際には斉直が江戸に参府する文政十二年の冬に家督相続が行なわれる事になった。これにより斉正の生活は公私ともに一変することになる。



UP DATE 2010.01.13

Back   Next


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
INランキング参加中。
お気に召しましたら拍手代わりに是非ひとポチをv


  
こちらは画像表示型ランキングです。
押さなくてもランキングに反映されます。
(双方バナーのリンク先には素敵小説が多数ございます。お口直しに是非v)






『子年の大風』ようやく完了いたしました。この話は資料調べも苦労しましたがそれ以上に違うもんで苦労した気が・・・・・正月休みはあくまでもオトココドモのものであって主婦には全く関係ありません。しかも愚弟がぢろうの親戚で入院するし。悔しいので本館か別館のエッセイで『ぢ』ネタを書こうかと思っております。(名奉行達が悩まされた病でもありますし歴史がらみで書けそうな気がしないでもない・・・・。)

本編の方ですが、今回盛姫の気絶シーンの原因が出ております。実はこの時点より八年後にあたる天保六年において、将軍様も男女セットになった(たぶん心中でしょう)水死体を目の当たりにしちゃっています。さすがにこれ一回だけだったみたいですが、人々が気を使っていても目に触れてしまうほど江戸の町には水死体が多かったみたいです。しかも見た目が・・・・・見た方々が口を揃えて『あの死に方だけはしたくない』って仰るくらいですからかなりひどいのでしょう。我が盛姫もそれは同様です。そのショックを未だに引きずっての気絶-――――――しかも自らの領民がですからそのショックはかなりのものなんです。万が一それが伝わらない場合管理人の文章が下手なだけです(爆)。

そしてとうとう斉正覚醒です(爆)。かぞえ15歳、今で言うなら中2ですよ、中2。一番そ~ゆ~ことに興味をもつお年頃に突入していますので、女の子を抱きしめておいて『その気』にならない方が・・・・・(以下略。ここは全年齢サイトです・笑)。ここまで来ればあとは押し切るだけなんでしょうけど、たぶんあと3話ほど(世嗣編が終わる直前くらいまで)うだうだすると思いますので、なまあたたかい目で見守ってやって下さいませ。

次回更新は1月20日、23:00の予定です。(見舞いに行く途中、人目も憚らず資料とにらめっこしておりますので小説の方は更新できると思います。)



《参考文献》
◆江戸の鐘・赤坂 http://kkubota.cool.ne.jp/tokinokane16.html
◆大江戸死体考 氏家幹人著 平凡社新書
関連記事
スポンサーサイト




 関連もくじ一覧 ▼ 
総もくじ 3kaku_s_L.png vague~道場主・作間駿次郎顛末記
総もくじ 3kaku_s_L.png 夏虫~新選組異聞~
総もくじ 3kaku_s_L.png 紅柊(R-15~大人向け)
総もくじ 3kaku_s_L.png 葵と杏葉
総もくじ 3kaku_s_L.png 横浜慕情(大人向け)
総もくじ 3kaku_s_L.png 短編小説
総もくじ 3kaku_s_L.png VOCALOID小説
総もくじ 3kaku_s_L.png 雑  記
総もくじ  3kaku_s_L.png vague~道場主・作間駿次郎顛末記
総もくじ  3kaku_s_L.png 夏虫~新選組異聞~
総もくじ  3kaku_s_L.png 紅柊(R-15~大人向け)
総もくじ  3kaku_s_L.png 葵と杏葉
総もくじ  3kaku_s_L.png 横浜慕情(大人向け)
総もくじ  3kaku_s_L.png 短編小説
総もくじ  3kaku_s_L.png VOCALOID小説
総もくじ  3kaku_s_L.png 雑  記
もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
【拍手お返事&相撲徒然】へ  【横浜慕情 狼の残夢・其の参】へ

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。
  • 【拍手お返事&相撲徒然】へ
  • 【横浜慕情 狼の残夢・其の参】へ