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「葵と杏葉」
葵と杏葉・維新編

葵と杏葉維新編 第十八話 長州討伐と斉正の嘆願・其の参

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 あらゆる意見はあったものの、幕府の威信をかけた第二次長州征伐の出兵命令に対し佐賀藩は前回の半分、五千七百名の出兵を決定した。

 一部の過激な若い世代からは長州藩や薩摩藩と手を結び、幕府を倒すべきだという尊皇的な意見が聞かれたが、それは佐幕寄りの考えを持つ斉正の意向で一蹴された。実際、威光に陰りが見えつつあるとは言え未だ幕府の力は強大であったし、藩内において『長州と手を結ぶのはやぶさかではないが、薩摩と協調路線を歩むのは抵抗がある』という薩摩への不信感を感じる藩士が極めて多かったこともある。そんな藩内世論が斉正の『幕命に従う』という意向の後押しをしたのだ。

「ただ、今回の幕府の作戦には極めて危うい部分がある為、布陣はできる限り後方に。長州勢が小倉口から一気に攻め込んできた場合、すぐに佐賀に戻り国境で防ぐことが出来るよう藩内に待機させる兵にも準備をさせておけ」

 どんどん佐賀に入ってくる幕府や諸藩の動きから鑑みると、長州の万全の準備に対し幕府や諸藩の戦意はあまりにも乏しく、下手をすると長州側が討伐軍を返り討ちにしかねない雰囲気も漂っていた。
 幕府内では首脳間の意思統一に手間取ってなかなか討伐手順も決まらなかったし、薩摩のようにあからさまに出兵拒否を表明する藩もあれば渋々動員された上に立ち往生を強いられている藩も多数ある。数こそ多いが役に立つような戦力ではない――――――諜報が集めてくる断片だけの情報でもはっきりと解る劣勢な状況に、貴重な戦力を裂く訳にはいかず、逆に長州軍が佐賀や外国人の多い長崎にまで進軍していた時の危機を考えざるを得ない。そんな思惑の中、佐賀藩兵五千七百は福岡藩や小倉藩などの後方へ陣取り、開戦の日を迎えた。



 それは予定より二日遅れの慶応二年六月七日の事であった。幕府艦隊が周防大島へ砲撃を開始したのを皮切りに、十三日には芸州口・小瀬川口、十六日には石州口、十七日には佐賀藩らが陣を張っている小倉口でそれぞれ戦闘が開始されたのである。

 大島口は幕府陸軍の洋式歩兵隊と松山藩が担当した。本来なら幕閣の実力者であり、斉正の従兄弟・伊達宗城率いる宇和島藩も大島口の担当だったが佐賀藩同様前戦には参加していない。しかし長州側が戦力分散を避けるため大島を重要視していなかったのが幕府軍に幸いした。地元民で構成された素人兵を相手に征討軍は守備兵を容易に退け、大島へ上陸・占領を果たしたのである。
 ところが占領した集落で松山藩兵が住民に暴行・略奪・虐殺を行った惨状の結果、大島住民の敵意と長州藩兵の士気を高め、同時に奪還論が強まり長州上層部は大島放棄から大島奪還に方針転換したのだ。当初小倉口を担当していた高杉晋作や本土防衛と芸州口の対処のため柳井に駐留していた世良修蔵が大島奪還の為に来援、幕府海軍と高杉率いる艦隊が戦い、夜間奇襲戦法により幕府海軍は敗走した。
 その後、世良修蔵指揮下の第二奇兵隊らが大島の奪還を果たすも、島内に逃げ散った幕府軍残党の掃討が終戦まで続く。

 芸州口では長州藩及び岩国藩と、幕府歩兵隊や紀州藩兵等との戦闘が行われた。彦根藩と高田藩が小瀬川であっけなく壊滅したが、幕府歩兵隊と紀州藩兵が両藩に代わって戦闘に入ると、幕府・紀州藩側が押し気味ながらも膠着状況に陥る。

 石州口では毛利元純の指揮の下、中立的立場を取った津和野藩を通過して徳川慶喜の実弟・松平武聰が藩主であった浜田藩へ侵攻し、十八日に浜田城を陥落させた。明治まで浜田城と天領だった石見銀山は長州が制圧したのである。

 そして佐賀が陣を取った小倉口では、総督・小笠原長行が指揮する九州諸藩と高杉晋作、山縣有朋ら率いる長州藩との戦闘、世に言う『小倉戦争』が関門海峡を挟んで数度行われた。
 しかし小笠原の指揮は極めて稚拙で的を得ず、優勢な海軍力を有しながら渡海侵攻を躊躇している間に六月十七日に長州勢の田野浦上陸を、七月二日には大里上陸を許して戦闘の主導権を奪われてしまったのである。その後も諸藩軍・幕府歩兵隊とも拱手傍観の体で小倉藩が単独抗戦を強いられる状態だった。更に七月下旬の赤坂・鳥越の戦いでは肥後藩細川家の軍が参戦し、長州勢を圧倒する戦いを見せるが、依然として小笠原総督の消極的姿勢は改まらず、業を煮やした肥後藩細川家を含む諸藩は一斉に撤兵してしまったのである。
 小倉口の例の如く討伐が長引くにつれ幕府首脳の稚拙な指揮に愛想を尽かした諸藩軍は勝手に戦線から離脱を始め収拾が付かなくなってきた。そんな幕府劣勢の気配が漂う中、幕府にとって一番怖れていたこと――――――将軍・家茂が二十一歳の若さで急死したのである。



 将軍・徳川家茂は第二次長州征伐の途上、大坂城にて脚気で倒れた。この知らせを聞いた孝明天皇は典薬寮の医師である高階経由と福井登の二人を大坂へ派遣し、その治療に当たらせる。さらに江戸城からは、天璋院や和宮の侍医として留守を守っていた大膳亮弘玄院、多紀養春院、遠田澄庵、高島祐庵、浅田宗伯らが大坂へ急派された。しかしその甲斐なく、家茂は七月二十日に大坂城にて逝去したのである。

「何と・・・・・・大樹公が!」

 茂実と同い年の、若い将軍の逝去を聞いた斉正や茂実は衝撃を隠しきれなかった。対抗馬だった慶喜のような才気は無かったものの、生真面目に一つ一つの仕事を実直にこなしていく誠実さに、斉正は好ましいものを感じていた。将軍家に対する忠誠の幾ばくかは、家茂の人柄によるものでもあったのである。

「こんな事になるのだったら・・・・・・年始めのお召しに応えておくべきだったな」

 斉正は家茂からの上洛要請を断ったことを悔やんだ。

「次の将軍は・・・・・・やはり一橋公になるのでしょうか」

 請役の茂昌が恐る恐る斉正に尋ねる。

「だろうな。ただ、優秀だがその人柄故、敵も多いお方だ。今までのように諸侯が大人しく従うかどうか」

「厄介な・・・・・・事になりそうですね」

 思わず呟いてしまった茂実の一言に、斉正は忠告を付け加えた。

「そう思うなら迂闊に動くなよ、茂実。万が一、私に何かがあっても茂昌の意見を取り入れるように」

 先代の請役・鍋島安房こと茂真に比べたら見劣るがする茂昌であるが、石橋を叩いて渡る慎重さはこういう状況に於いて重要であり、若い茂実を補佐してくれるだろう。
 名請役として斉正を助けてくれた兄・茂真は第二次長州討伐直前の四月二十一日に没しており、斉正の政権を支えてくれた者達も歳を取っている。若い世代の嗅覚も必要だが、老練で狡猾な政治手腕はこれから教え込まなければならないのだ。刻一刻と激変していく状況の中、あまりにも大変である。その中で唯一の救いが茂昌の性格と言って良いだろう。

「とにかく今は小倉の戦の状況次第だ。小倉には申し訳無いが、暫くは遠巻きに戦況を見守るしか・・・・・・我が藩を守る術はない」

 沈痛な斉正の一言に、その場にいた者達はばつが悪そうに俯いてしまった。人道を唱えるのならば小倉藩を助ける為に兵を出すべきだろう。だが、それで長州藩を刺激して泥沼に陥ることだけは藩主として何が何でも避けなければならない。そして残念ながらそれはどの藩にとっても同じだったのである。
 大局を考えなければならない、と言葉で言うのは簡単である。そして護るべきものが少なく、自分の志のままに動くことができる若い浪士ならば未来の為、大局の為動くことも可能だろう。だが、領民や家臣など多くの命を背負って立たなければならない藩主が同じことをすればどうなるか、一目瞭然だ。
 日和見と陰口を叩かれることが多い斉正であるが、斉正の行動は他藩のごく普通の藩主達と何ら変わることはなく、『自領と領民に影響が及ばない限りに於いて幕命を遵守』していただけである。ただ他藩と違う処は、その軍事力と姻戚も含めた徳川との深い繋がり――――――それだけであった。



 将軍逝去は勿論戦局にも大きく影響した。小倉口にて指揮を執っていた小笠原は将軍家茂の逝去を理由に戦線を離脱してしまい、孤立した小倉藩は八月一日小倉城に火を放って香春に退却したのである。
 徳川慶喜は大討込と称して自ら出陣して巻き返すことを宣言していたが、この小倉陥落の報に衝撃を受けてこれを中止。家茂の死を公にした上で朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で休戦協定を締結した。
 慶喜の意を受けた勝海舟と長州の広沢真臣・井上馨が九月二日に宮島で会談した結果、停戦合意が成立し、大島口、芸州口、石州口では戦闘が終息した。しかし問題の小倉口では長州藩は小倉藩領への侵攻を緩めず、戦闘は終息しなかったのである。

「まだ・・・・・・小倉口の戦いは終わらないのか!朝廷の停戦の勅許も出て、幕府と長州の間にだって停戦が合意したというのに!」

 小倉口での戦況を聞いた幕府関係者は苛立ちを露わにした。しかし、この長州藩の違約に対し幕府には停戦の履行を迫る力はすでに無く、小倉藩は独自に長州藩への抵抗・反撃を強力に展開した。小倉藩家老・島村志津摩らの指導により軍を再編して粘り強く長州藩への抵抗を続けたのだが、それだけ戦闘は長期化してしまったのである。
 さらに十月に入り、長州藩は停戦の成立した他戦線の兵力を小倉方面に集中して攻勢を強め、企救郡南部の小倉藩の防衛拠点の多くが陥落した。ここに及んで小倉・長州両藩間の停戦交渉が始められ、慶応三年一月にようやく両藩の和約が成立した。
 なお、この戦いに基づいて西郷隆盛は幕府に戦いを挑んで勝つ確信を持ち、かつ幕府の戦力は歩兵以外は役に立たないと判断した。そして、今後の戊辰戦争まで続く幕府軍との戦いにおける戦力の根拠を、自軍一に対し幕府軍十と設定したほど幕府側戦力を非常に小さく見積ることとなる。



 家茂逝去の後、老中板倉勝静・小笠原長行は江戸の異論を抑えて慶喜を次期将軍に推した。しかし慶喜は何を思ったのか八月二十日に徳川宗家は相続したものの、将軍職就任は固辞し続けたのである。一方水面下では諸侯を懐柔するための活動をしており、斉正も八月三十日、親書をもって一橋慶喜から上洛を要請された。しかし、斉正はこれを辞退したのである。

『お亡くなりになられた大樹公の親書への返事同様体調が悪く、上洛が適わない』

 実際体調の悪さも本当であり、十日以上にわたる長旅に耐えられないというのも嘘ではなかった。しかしそれ以上にこのまま愚直に幕府に従っていっていいのだろうかという迷いが斉正に生じていたのである。
 第二次長州討伐失敗による幕府の威信の低下も理由の一つであるし、家茂の後継・慶喜の『将軍の資質』に対する疑念もあった。実務者としての慶喜の実力は斉正も大いに買っている。だが、その実力故か抵抗勢力や自分に意見するものに対して狭量なところがあるのが引っかかるのである。
 一方、亡くなってしまった人間を懐かしんでも仕方ないと思いつつ、家茂の若いながら全てを包み込む大らかさを惜しんでしまう。だが、そう考えるのは古いのかも知れない。

「西洋の指導者は実務もこなすという。これからの時代、将軍も藩主のように馬車馬のごとく働き続けることになるのか・・・・・・・一橋公のように」

 否、馬車馬のごとく働き続けなければ、この国は外国に侵略される前に内側から崩れていってしまうかもしれない。それだけに慶喜の働きに期待する部分もあるが、それ以上に慶喜がどういう戦略をもち、動こうとしているのかはっきり判らない限り迂闊に近づくのも危険だと斉正は感じていた。

「・・・・・・体調不良故、上京猶予を請願する。暫くはこの理由でお召しを断り続け様子を見るべきだろう」

 そう決意し、十一月七日付で上京猶予を請願した斉正だったが、相手は斉正より遙かに執拗で諦めが悪い性格だった。しかし斉正がそれを知るのは年明け、慶応三年になってからのことになる。



 斉正を始めとする諸侯が様子見を決め込む中、慶喜は第二次長州征伐停戦直後から仏蘭西の支援を受けて旧式化が明らかとなった幕府陸軍の軍制改革に着手し始めた。慶喜は仏蘭西公使・レオン・ロッシュを通じてフランスから240万ドルの援助を受け、横須賀製鉄所や造・修船所を設立し、ジュール・ブリュネを始めとする軍事顧問団を招いて軍制改革を行う。
 また老中の月番制を廃止し、陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置した。さらに実弟・昭武をパリ万国博覧会に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励したのである。
 しかし、その予算を直参旗本の知行高を半分召し上げることで補おうとした為、歩兵隊の一時解雇による失業者増加と合わせ、江戸の不安定化を招く結果となった。また戦いの長期化に備えて各藩が兵糧米を備蓄した事によって米価が暴騰し、全国各地で一揆や打ちこわしが起こる原因となる。


 新しい国作りの為の慶喜の改革と反比例するように、世情はますます悪化していく最中の十二月五日、慶喜は将軍宣下を受けようやく将軍に就任した。この頃の慶喜ははっきりと開国を指向するようになっており、将軍職就任の受諾は開国体制への本格的な移行を視野に入れたものだった。
 慶喜政権は会津藩・桑名藩の支持の下、朝廷との密接な連携を特徴としていた。それ故慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、多くの幕臣を上京させるなど、実質的に政権の畿内移転が推進された。一方慶喜は将軍就任に前後して上級公家から側室を迎えようと画策しており、この間、彼に関白・摂政を兼任させる構想が繰り返し浮上する。また、これまで政治的には長く対立関係にあった小栗忠順ら改革派幕閣とも連携し、慶応の改革を推進した。

 慶喜の指揮の下、長州討伐に失敗し威信を落としてしまった幕府がどんどん変化してゆく――――――江藤新平が斉正に『ある話』を持ち込んできたのはまさにそんな時であった。



UP DATE 2012.05.04

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ある意味肩すかしを食らったような第一次長州討伐と違い、第二次長州討伐は各地で激闘が繰り広げられていたんですね・・・実は今回書くに当たってどんな戦いだったのか初めて詳細を知った次第です(教科書では『激闘』くらいで流されちゃっておりますし)
・・・暴行・略奪・虐殺とか最初に受けていたのは長州藩だったんですね。どうも東日本に住んでいる人間としては『会津戦争』のイメージが強いもので、『長州=被害者』という感覚がどうしても薄くなってしまうのですよ。やっぱり一方的な見方は危険ですね。改めて痛感いたしました。

そんな激闘の最中、佐賀を含めてそこそこ『小狡い藩』はうま~く戦いから逃げちゃったり、最初から参加しなかったりと上手く立ち回っております。どの藩も『馬鹿馬鹿しい戦いで自藩の貴重な戦力や財産を浪費したくない』という思惑があったのでしょう。特に長州周辺の藩は自領に攻め入られてしまったときのことを考えて『守り』を重視したく思ったはず・・・と勝手に妄想し、斉正には甲羅に閉じこもった亀のような守りに徹して貰いました。でもあながち外れてはいないんじゃないかと・・・・。

次回更新予定は5/11、『大政奉還(仮)』に突入します。大隈の脱藩、上手く組み込めると良いんですけど・・・(^^;)
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